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2016年6月2日木曜日

「いつも最後に見たルノアール作品が最高傑作だと思ってしまう」

そう言っていたのは映画評論家の山田宏一さん。

渋谷のユーロスペースの上の階にあるシネマヴェーラという映画館は、ヤクザ映画を特集したり、日活ロマンポルノをまとめて上映したり、かと思うとロシア映画祭をやったり、溝口健二や清水宏を特集したり、ヌーヴェルヴァーグ50年の歴史だとかやったりと、節操がないようで、シネフィルたちを唸らせるなかなか一癖も二癖もある映画館だ。

この映画館はそれほど通った記憶はなく、つい最近出来たばかりだと思っていたら、それでも今年が10周年というから意外に歴史がある。その10周年を記念していろんなジャンルの映画が上映されているの中で、先週たまたま ジャン・ルノアール監督の『フレンチ・カンカン』を見る。



ちょうど今から20年前の1996年に、今も京橋にある国立近代美術館フィルムセンターでルノアールの生誕100年を記念して(といってもルノアールの生誕は1984年)ほぼ全作品を上映していた。もちろん全てを見ることは不可能で、見れたのは5〜6本だったと記憶している。ルノアールはナチスドイツから逃れて渡米してしまうが、『ゲームの規則』とか『ピクニック』とかフランス時代の作品が印象に残っていて、まさに「いつも最後にみたルノアール作品が最高傑作」だという感覚を覚えている。

『フレンチ・カンカン』は渡米後、一時的に(実に15年ぶり)フランスに戻っていた時期に、モンマルトルのムーラン・ルージュの成り立ちを描いた作品。有名な作品なのに実は今まで見る機会に恵まれなかったので、これはチャンスと思い迷わず映画館に足を運んだが、やはり同じく「いつも最後にみたルノアール作品が最高傑作だ」と思ってしまった。

ルノアールの場合、いつもストーリーは単純明快で、前述の通り、この映画もパリ・モンマルトルのムーラン・ルージュを興したあるプロデューサー(敢えて、「興行主」とは言わない)のサクセス・ストーリーという単純なものだ。多くの映画解説がこの主人公のことを「興行主」と書いているが、我々はこの「興行主」という言葉の中になんとなく胡散臭さを感じてしまう。そう、なにか疾しいというか、タレントを商品の用に扱う金の亡者のようなイメージが定着しているような気がする。実のところ、この映画の主人公「興行主」は ”何でも屋” であって、あるときは ”雑用係” 、ある時は金策に走り、ある時はタレント(音楽家、ダンサー、衣装係など)のスカウトである。 しかし考えてみるに、プロデュースするということはそういうことだ。なんであっても細部にこだわり、時には人を傷つけてしまいながらも、自分のイメージした理想を実現させるのが、プロデュースであり、またそういう能力・人格が備わっている人が、名プロデューサーと言える。



この映画のラスト・シーンは、フレンチ・カンカンというダンス・ショーが延々と続く場面。このプロデューサーはショーを見ずに(最後は少し見るが)舞台裏でひたすら達成感を表する笑みを浮かべている。彼は見なくてもショーが成功していることはよくわかっている(オーケストラの指揮者が実際の演奏でやることはほとんどない というのと似ているかもしれない)。

私は映画の中のパーティー・シーン、例えば、フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』レオス・カラックス『ボーイ・ミーツ・ガール』も好きだが、ダンスシーンも大好きだ。

中でも大傑作なのが、セルゲイ・エイゼンシュテイン『イワン雷帝』第二部 の終盤の宴会でのダンスシーン(ダンサーは全て男性)。
このスターリンを批判した映画にプロコフィエフが曲を提供しているが、このダンスシーンの鬼気迫る音楽も最高に
スリリングだ。これに対して、『フレンチ・カンカン』は、オッフェンバックなど軽妙なオーケストラ作品と相まって(もちろんダンサーは全て女性)、華やで微笑ましい。両映画のダンスは大変膝に負担をかける(方やコサックダンス、方や足を頭の高さまで上げるカンカン)だろうというのは余計なお世話か。

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Next Live Information

"Q.A.S.B. meets kickin"

OPEN: 18:00  CLOSE: 23:00
PLACE: Club CUCTAS
ENTRANCE: ¥2,000
SPECIAL GUEST DJ: Daisuke Kuroda (kickin)
LIVE: Q.A.S.B.

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